パウロとバルナバはリストラという町へ行きました。ここで宣教が行われた際、おそらく物乞いをしていたと思われる「足の不自由な男」が反応しました。彼はパウロの言っていることを理解しただけではなく、信じたのです。少なくとも信じたいと願ったのです。パウロもまたそれに応えました。「パウロは彼を見つめ、癒やされるのにふさわしい信仰があるのを認め」たのです。
ここで癒されるのにふさわしいと言える信仰とは何でしょうか。私たちはつい、どんな時でも強く信じ抜く堅い姿勢をつい想像してしまいます。しかし最も重要なことは、パウロが語る神さまに信頼しようとしたこと、助けを求めたことではないでしょうか。だからパウロは彼に向けられた視線を受け止め、応えたのではないでしょうか。
重要なのは、求める者に対して応えてくださる神さまの働きです。今回、その神さまの働きはパウロの言葉を通して示されました。パウロは言います。「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で。すると、「その人は躍り上がって歩き」だしたのです。立ち上がれない者に新しい力を与えてくださる神の力が、パウロを通して働きました。
奇跡は更なる影響を周囲に与えます。それを見て知った人々の間に反応が起こるのです。ただしそれはいつも好ましいものとは限りません。ここでは人々はパウロとバルナバが神々であると勘違いし、彼らを崇拝し始めたのです。「神々が人間の姿をとって、私たちのところに降りて来られた」と人々は言いました。彼らの文脈の中で勝手な理解が進みかけました。しかし「バルナバとパウロはこのことを聞くと、衣を引き裂いて、群衆の中に飛び込んで行」きます。遺憾の意が示され、自分たちが神と礼拝されることではなくて、真の神へ人々の視線を移そうとするのです。
パウロは自分が人間に過ぎないこと、そして真の神がどなたであるかを明らかにすべく努めます。神はこの世界を創造し、歴史の中に働きかけてくださるお方です。私たちがそれを知る前から、この世界のあらゆる被造物を通して神さまはその恵みを私たちに注ぎます。そして御子イエスの現れにより、神の恵みは一層明らかに示されるのです。
こうしてパウロの説得はひとまず彼らを食い止めるのですが、彼らに巣食う迷信の根深さは、次の出来事に影響してしまいました。パウロたちが後にして別れたはずの「ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込」んでしまったのです。使徒たちに対する悪感情は、彼らが去った後も残り、憎しみと嫉妬に駆られてさらに多くの人々を焚きつける結果となったのです。こうして人々は「パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した」のでした。
凄惨な場面です。しかしパウロは立ち上がります。いわゆる死者の復活のような奇跡ではありません。その意味では驚くべきことではありませんが、苦難にあっても主に支えられ、新しい力を与えられて次の場所へと向かうことは、主の支え無しには行えないことです。その意味では奇跡だと言えます。こうしてパウロとバルナバはさらに新しい場所へと向かっていくのです。
ここでは足の不自由な男が立ち上がったことが印象的ですが、こうしてパウロもまた新たに立ち上がるのです。私たちにもまた神さまは日々語り掛けてくださいます。神さまの恵みを受けて「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と。そしてイエスさまに倣って、その後を歩みなさいと。この呼びかけに応えて立ち上がり、新たな歩みを始めましょう。
2025年3月16日
牧師:中村恵太